昭和四十九年四月十四日 朝の御理解
X御理解第八節
「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。」
自分は人のように信心も出来ん本当に不信心、それでもやはりおかげを受けたいから信心をしているといった人達がありますが、自分は不信心者だからおかげが受けられん。自分位の者ではおかげは受けられんと言うその心が、おかげを受けられんのですね。神様はね、どんなに不信心者であっても、月に一回しか参ってこん、いや半年に一回しか参ってこんという者でもね、それは不信心者です。けれども、自分は不信心だからおかげを受けられんという心が確かにおかげが受けられん。おかげは確かに受けられます。「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ」とおっしゃる、くずの子だから、もう自分は人並みのことは出来んから、おかげ頂かれんということはない。いわゆる、「信心しておかげを受けてくれよ」とおしゃる。
そういう例えばくずの子であっても、「神様お願いします」ということになれば、それがかえってかわいいとおっしゃるくらいですから。私はそれをお取次させて頂いて、それを本当に感動することがありますね、勿論おかげだけですけどもね、それは徳を受けるということではないです。けれども、おかげを受けるということは、ひっかからない人、例えば「あげな悪いことをして」と人は言うけど、自分は悪いこととは一つも思っていない。そして「神様お願いします」と言う。いわゆる、「信心しておかげを受けてくれよ」と「神様お願いします」と言うのが信心なんだ。だからねあんまり自分というものを痛めつけると、自分は不信心者じゃけんおかげは受けられんと決めとる。それでおかげ頂きたいと言うたっておかげ頂ける訳がない。ただそれにこだわってはならん。こだわらない心を頂くことが有難い。
昨日、私はある雑誌を読ませて頂いとりましたら、親鸞上人の「歎異抄」ですかね、親鸞上人がね、言わば人を導き教導されたそのことを六代目かね七代目かね、蓮如上人という方が纏めたのがあの「歎異抄」と言われます。あれは元は極秘の物であったそうです。「人には見せられない」と言われたそうです、あの「歎異抄」のさわりとでもいったようなところに、善人でも助かっておるのであるから、悪人は尚更助かるといったような言葉がありますよね。だから悪人の方が助かるなら、悪人の方が良いという風潮があったらしい。ですから、それが極秘になっておったのが、明治時代ですからね、何人かの人が本にしたりして、大変に受けた訳です、それは生身を持っておる凡夫が助かることのためのものだと、又教えだと云うふうに頂いたのですね。だから、あれは悪人を悪人というが悪いことばっかり、汚らわしいことばっかり、罪深いことばっかりしておる者の、言うならば慰めの書だと言う者に、ある意味で、極め付けてある書き方をしてあるのを読ませて頂いたのですけれども、だのにやっぱりその意味というのは、屑の子程可愛いと、此処は教祖様はそこのところをはっきり自分の子供に例えて言うておられる。頭が良い。器量が良い。力がある。勿論可愛くない笑わないけれども、もうこれは心配がいらん。
けども頭が悪い器量が悪い。心が素直でない。悪いくせがある。そう云う子供であればある程、親は不憫(ふびん)をかけるもの、可愛いものだと親が思う可愛いというか、不憫をかけるということ、だからそういう悪人であろうが、下人であろうがです。なら、仏様におすがりするという心になれば、神様の心はそういう者程可愛いという心が、を持っておられるのであるから、助かられるんだとこう言う。それで地獄に陥ることはないと言う。助けて下さいと、そういう者でも信心しておかげを受けて呉れよということだと思うんです。くずの子ほど可愛いから、自分もくずの子になろうとか、悪人ほど、善人ですら助かっとるのだから、悪人ほど尚更助かる、尚更助かるというところに、私は「慈悲」というか、仏教で言うなら、お道の信心で言うなら「神心」と言うか、親心をそこに感じます。だからそこんところを間違えて頂く頂き方をする人があるために、あれを秘密にして、お寺の奥の奥にしまいこんであったんだろうと思います。今朝から私は、こういう句を頂いた。
[かもけしに仁丹を召す隠化かな]と頂いたこれは或る俳句の先生の句なんです。かもけしに仁丹を召す隠化かな。かもけしと云うのは、例えばお坊さんが鶏のちりか何か食べたんでしょうね。生臭気を食べたということなんです。口の中が生臭いから、仁丹を召す、隠化と言うのは、御隠化さんと言うでしょう。お寺の主のことを御隠化とこう言う。かもけしに仁丹をのむ隠化かな。
そしたら、今日、御理解八節を頂くんです。もうここの辺のところは、金光様の御信心を頂き、最近の合楽の信心を頂いたら、もう問題じゃないところです。どんなに、生臭化を食べようが、それこそ、御食物として頂いたらむしろ有難いということ。それを隠そうとか、それを誤魔化そうとしなくても、もうそのままが有難いんだと。いわゆる、御の字をつける。お魚であろうが、肉であろうがです。御食物とした神様が、人間の命のために、作り与えて下さったものとして頂くということ。
これは食べものことだけじゃありません。様々のこと、あの人は生臭いといったようなことを言うですね。又は、坊さんで悪いことしたり、俗人のようなことをすると、あれは、生臭坊主だとこう言うですね。だから、そういうように、生臭坊主と決め付けなくっても、そこに生臭坊主の助かる道はないです。だから、その生臭いもの、その生臭自体が、御事柄であり、御物であり、御食物であるという頂き方が出来たときにです。もう自分は生臭坊主だとして卑下することはいらないです。いやむしろある意味での悟りを開いた偉いお坊さんということになる。
親鸞上人なんかはそういう人だったと思うですね。生臭気も食べられた。妻帯もされた。しかも一人二人じゃない何人もの奥さんを迎えられた。もう全然生臭坊主的な、言うならば、もうそれこそ、地獄に落ちるより仕方のないような、と普通はいうような坊さんが、むしろ悟りをひらいた。有難いと言うて、いわゆる名僧知識と言われる程しのおかげを頂いたのが親鸞上人です。人から生き仏様のように、そういう所に私は、屑の子の自覚というて、自分は生臭坊主だから自分はもう助かられんのだと自分を決め付けるような、私は悲惨な思い方は、おかげにならんと思う。私は不信心、人のごと修行が出来んから、人のごと不信心者じゃからおかげは頂き切らんと言うて、もうおかげは頂き切らんものと決めたり、自分は生臭坊主だと決め込んでしまっておるのだから、地獄に行くより仕方がない。おかげが頂かれんものと自分で決め込んでおるような、おかげの受けられる筈がない。そこに、信心の悟りということになって来る。
「不信心者ほど神は可愛い」、けれども不信心者は不信心者なりにおかげは受けられるということ。生臭坊主、生臭坊主と言うけれども、生臭坊主だと言われ、自分も思っておれば地獄より他に行くところはないです。けれどもそれこそ、かもけしに仁丹を召すなんていうことですね。それを誤魔化そうというのでなくて、その鴨そのものがです。神様の下されたものである。御恩恵のものとして頂く時に誤魔化すことはいらん、素晴らしい名僧知識と言われる程しのものが、これから開けて来るのである。本当に信心のおかげというものが、いわゆる、「和賀心」とおっしゃる。本当にわが心(和賀心)です。
毎日日参り夜参りしとってもおかげが受けられん人もある、一週間に一ぺんか十日に一ぺん参って来とっても見事におかげを頂く人がある。自分は不信心者だと自分で決め付けてしまっておるから、自分は生臭坊主だと思うておるから、生臭坊主として、言うなら、地獄行きが待っておるだけのこと。私はここんところに本当に大きな、一つの飛躍というか、心の飛躍を遂げなければならないし、また教祖様は、そういう教えをしておって下さると思うです。本当に人間が、その人間臭ぷんぷんとした、言うなら生臭人間が頂く信心だと思います。そんなら生臭人間でないものがあるかと、決してありません。もう百人おるなら百人が、厳密に言えば生臭人間であります。それを例えば綺麗事ばかり言うてです。言うておったんではおかげにならん。自分を生臭人間にしないで、それを御の字をつけて頂くような頂き方の中からです。成程神様は「屑の子ほど可愛い」と仰せられる。屑の子の方にしか、かえっておかげを下さってない。不信心者にかえっておかげを下さる、というふうに、意味が今日は少しわかって下さったと思うんですけど、どうだったでしょうか。
間違えてはなりません。言わば、一寸間違えていると人にも話せないことになります。ならもう不信心者がよいのなら、毎日参らんな、時々参ろうといったような考え方はいけない。それは強い熱烈な信心をせねばおられない程しのものが生まれるときにはです。それはもうおかげではない。御徳を受けるチャンスになっているのですから、もうそげな、例えば、止むに止まれん。参らにゃ居られんと言ったようなです。唯おかげおかげに終始するには勿体ない。そこには、本当の光、本当の力、本当の御神徳を受けさせて頂くチャンスですから、止むに止まれんような勢いで信心させて頂かにゃおられんというような、言うなら、伸小力、そう云う迫力の湧き出て来るような、ね、皆さん朝の御祈念に参る方達はそういうようなものと思うです。ですから、もうこげん雨の降りよるところへ「しるしか」ときに参らんでんおかげが頂かれる。なら却って不信心者ほどおかげを頂かれるような考え方でなくて、今日私が皆さんに聞いて頂いた、隠化のことをようく頂いてもらいたい。
[かもけしに 仁丹を召す 隠化かな]
と言う生き方では、一生生臭坊主で終わらなければならない。鴨の臭いがしようが、生臭気の臭いがしようが、そのこと自体を心から御恩恵のもの、お恵みのもの、として頂けた時に、そこから屑の子程可愛いという、又は悪人尚をもって助かるという働きが頂けてくる。問題は、助からなければならない。おかげを頂かなければいけないですからね。
どうぞ。